「給食のカレーやめます」がなぜ的外れなのか。

写真は熊本で食ったカレー。
うまかった。

さて、教員いじめで「給食のカレーやめます」の件である。


「カレーを見て気分が悪くなるのはバカ教員のせいだし、カレーを見てあの行為を真似るほど子どもはバカじゃないし、万が一真似たとしたらバカ教員のせいなので、これで人気献立不動の1位のカレーを禁止したら本当にバカだ」


というのがこの件の表層に触れたときの私の1次感情であるが、「カレーやめます」を事象ではなく象徴として捉えると、もっと根深いものが見える気がしている。


「1人でも気分悪くなる子がいるなら仕方ない措置」という意見があり、確かにそうかもな、とも思う。


でもやはり学校は、このカレーの件のように、「向き合うこと」ではなく「遠ざけること」あるいは「排除すること」で問題を処理しようとすることが多すぎると思うのだ。


学校でいわゆるいじめが起こると、被害者は心身に深く傷を負わされ魂は暗く沈み、そしてさらには学ぶ場をすら奪われる。「不登校」「登校しない権利」などの言葉が手伝って、被害者が場を追われることが正当化される。一方で「犯人探しや懲罰を与えることは学校の権能ではない」とされ、加害者は学校に残ることになる。

「時が解決する」「学びの場はここだけではない」確かにそうだろう。でもなぜ被害者やその家族だけが悲しみを引き受け、苦しみつつもそこから立ち上がり、新しい場を探す努力を強いられなければならないのか。あまりにも不条理である。


別にカレーが食えなくたって死にはしない。中止それ自体は騒ぐほどのことではないのだろう。だがそこに象徴される隠蔽や隔離や排除といった問題処理の姿勢は、今後新たなトラブルが起こったそのとき(あらゆる組織において人間関係におけるトラブルとその再発は不可避だ)、子どもを、あるいはその魂を、再び傷つけることになると思えてならないのだ。


子どもも、今回は大人も、加害者はいつだって、深刻な結果の後に「そんなつもりはなかった」と言う。

だから重要なのは、「そんなつもりではなくっても、それはやってはいけないことだ」と、学校は倫理で臨み、責任ある第三者として、その行為が悪であると毅然と認定することだ。深刻な結果となるより先に。


警察あるいは法律家などの介入については被害者の判断で必要に応じ適切に対応されるべきと思う。いわゆるいじめ事件の場合、学校は基本的に管理者であり被害者ではない。だから「学校は警察に通報しろ」という人の主張は、感情的には理解できるが合理的でない場合があると考える。学校は捜査協力または捜査対象の立場だ。


そして加害者とその罪が明らかになったそのときに、親とも警察とも違う立場から、厳しい倫理で臨み、それでも関わった全ての子どもを抱きとめるのが学校であり教師なのだと思いたい。


そうやって「臨む」こと。隔離や排除ではなく。それは相手のことも自分のことも諦めないこと。絶えることなき諦念とそこからの再出発。その歩み出しの瞬間に希望を込め続けるのだ。苦しくとも。


かーちゃん、今夜はカレーだな。


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